あとがき

夏が来るといつも旅に出たくなった

別に目的地があるわけでもなく、ただ無性に遠くへ行きたくなって旅に出る

それは時に自転車で

時に歩いて

「夏空の下で伸びる入道雲に追いついてみたい」

「ひぐらしの鳴く夕暮れ時、遠くに見える鉄塔の、もっと遠くへいきたい」

ただそれだけでよかった。それさえあれば、あとはもう何もいらないほどに…

ただこの道の先へ、最果てへ

とおくへ、とおくへ、とおくへ

自分の足で進みたかった

「歩く」という何よりも単純で純粋な旅がしたかった

人はきっと純粋なものにほど強く憧れ、時に恐怖する。その狭間で踠きそれでも掴もうと進み出した時、そんな純粋はいつしか夢へと変わる。そういう純粋な憧れに不純物は何一つ要らなかった。

野球を好きな少年がプロ野球選手になりたいように

お花を好きな少女がお花屋さんになりたいように

ただ旅に憧れた

そんな自分の旅には大層な理由などいつも必要なかった

「やれ他人に勇気を与えたい」だとか

「やれ誰かの希望になりたい」だとか

そういう大義は掲げなくてもいい。

この道の上で見続けた夢に、この道の先に溢れるロマンに、それ以上の理由は無いのだから

ただでさえ重い荷物を背負う旅だ

せめて心はまっさらに

自分の残した足跡でさえ次の日には風に吹かれて消えてしまっても、それはそれで心地がいいものだった。

そんな純粋な気持ちを追い求めたからこそ、20392キロもの道のりを5年間もの歳月をかけて、自分の足だけで旅をすることが出来た。

旅に答えなんていうものはないのだろう

大切なのは自分の奥底から込み上げてくる熱い源泉のような「なにか」で、そんな胸高鳴る「なにか」に一番近い気持ちを言語化した時に出てくる言葉が「世界一周」とか「日本一周」とか「日本縦断」とかそういうものなんだと思う。

そう、所詮言葉だからこそ、本当に大事なのは「日本一周すること」では無く、その道の途中で何を見るかなのだ。手段だって別になんだっていい。公共交通機関でも、車でもバイクでも自転車でもヒッチハイクでも、、

ただ、そんな数ある手段の中で最後の最後、一番憧れた旅の原点が「徒歩」であって、最果てという道の遠くまで歩きたいという欲望を満たすために最も近い看板が「徒歩日本横断」や「徒歩日本縦断」という看板だった。ただそれだけの話だ。

むしろただそれだけの欲望のためだけに途方もない距離を歩んだ

そんな単純な憧れを追いかけるためなら、例えば疲れ果ててもう進めないと思うような時でも、血尿が出るほどに精魂共に枯れ果てた時でも、ただ一心に、まっすぐに、その道の先を目指し続けることができた。

目先の悦び全てを投げ打ってでも追いかけていきたいほど強烈に、どこまでも続く「道」そのものに憧れた。

もはや憧れなんて言葉じゃ足りないほどに、焦がれ、進み続けた。

そういう狂気すら覚える衝動はなにも自分だけのものでは無い。鳥も車も新幹線も、信じられないくらいのスピードで進んでいく

そんなに必死になって、泥だらけになって、傷も付けて、一体僕らはどこへ向かうのだろうか、何を目指して、何を手に入れたいのだろう、この道の果てには何が待っていたのだろう

遥か昔、モンゴロイド達がアフリカを飛び出してまで、世代を変えてなお、何度も倒れながら、それでも二本の足で歩き、辿り着いた楽園は本当にこの世界で合っているのだろうか

唯一確かに言えることは、あまたの旅人がこの道の上に残してきた足跡と、その跡が紡ぎ出す途方もない夢の墓標とも言える道標

そして憧れ、夢、ロマン、そういった類は全部その道の上にあった。それらを載せた道は果てしなく続き、旅人がその先を望む限り、誰にでも平等に果てしなく広がっていく荒野だ。

そして望むことをやめればその場所がその人にとっての「果て」となる

旅人はいつもそんな旅の途中で御伽噺のような夢をみる

人はそんな旅人をいつも「自由だ」と言う

だけど旅を重ねて、人の思う自由と自分の中の「自由」は少し違うと思うようになった

何に縛られることもなく、目的地もなく、ただ自分の行きたいところへ行く。そういうものを「自由」そう呼ぶのなら、自分の旅はむしろ不自由な旅だ。

大学生という限られた時間の中で旅の手段として「歩く」という意志を貫くことは、そういう自由意志を置き去りにしなければいけないことが沢山あった

毎日決めた目標に向けて歩き続けなければ、そんな限られた時間の中で最果てまで辿り着くのは不可能なこと。道中の行きたい場所や滞在したい場所でもその時の気候や身体の調子、そしてその場所の安全性や状況に合わせて諦めなければならないこともある

そう、旅は自由に見えて意外と不自由なことが多い。「日本一周します」とか「世界一周します」みたいな看板を掲げた瞬間にその旅は自由とは対極になりかねないことが分かった

そうやってステレオタイプの「自由」には染まれない自分の旅に嫌気がさすこともあったが、同時に旅を続けていると新たな「自由」の意味を知った。いや、正確にいうと出会った沢山の方々に教えてもらった

例えば小さな村を歩いている。

その村は漁村で、船と共に大海原へ繰り出す。夜は煌々と波間に人々の灯火が揺れる、潮の香りが漂う港町だ。

また違う小さな村を歩く

その村は山間の集落で、人々は林業を営みながら山と共に息をしている。

そうして山や海をいくつも越えた先に大きな街がある

そこでは沢山の人たちが、会社に勤めたり、自分で会社を営んだり、バイトで食い繋ぎながら夢を追いかけたり、、、

そう。道の上で出会った沢山の人それぞれに一つ一つの人生があって、その人達はそれぞれの正義の中を必死で生きている。そんな誰しもが持つ多様な価値観を認めながらも、自分なりの正義に対して胸を張って生きていくこと。

他人を知って自分を知って、それぞれを認めた上で「自分は自分」と思い、歩いていける強さを持つこと、自分の行く道を信じ続けていけること。それがこの旅の中で出会えた「自由」という問いに対する答え、そして自分の中でこれからもずっと大切にしていきたい想いだ。


そんな道を歩き続けて、最果てに辿り着いた。

それが自分にとっての旅に対する答えであり、果てだ

そしていつか、この道の先を見てみたいと思ったその時にはまた、性懲りも無く旅に出よう

それがいつかは分からないけど

そんな日がもし来るとしたら

きっと蝉がうるさい程に鳴くよく晴れた

暑い暑い夏の日のことだろうなぁ

夢は夢で目が覚めれば

跡形もなく消えてしまうものだけど

また何度でも夢を見ればいい

旅って

いいもんだねぇ

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